ブラタモリ

​NHKブラタモリ「信長の安土城▼わずか3年で消えた幻の城!信長が描いた夢とは?」

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天下統一を目前に、わずか3年で消えた幻の城・安土城。織田信長が人生最後に描いた夢に迫ります!お城の定番スタイルは安土城が始まり!?天主へ続くまっすぐな道に秘められた信長の夢とは?▼びわ湖を制し、城下町を繁栄させるための緻密な戦略を探ります。楽市楽座で実現した気品ある城下町っていったい?1000年以上続く家で発見した古文書が物語る“伝説の勝負”とは?信長が愛した相撲の秘密に迫る。城のライトアップも!

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琵琶湖のそばに織田信長が築いた安土城跡を訪れ、安土城に信長が描いた夢を解き明かした回です。

安土城は、天下統一を目前に築かれ、完成した3年後に本能寺の変があって、わずか3年の短い期間しか存在していない幻の城とも言われるそうです。

当時の安土城を再現したCGが紹介され、地上6階地下1階、高さ46mという城の姿がよく分かりました。

この安土城は、後の城に大きな影響を与えていて、①高層天守、②高い石垣、③瓦ぶきは、城づくりの3つの定番となったそうです。

天主までは真っすぐな道「大手道」が通っていましたが、これが信長が描いた夢の一つで、
天皇を迎えるための道として真っすぐ整備したと考えられるそうです。

立地では、琵琶湖の水運を生かせる絶好の場所にあり、「琵琶湖を制する者は天下を制す」とも言われるそうで、天下統一のために琵琶湖を制したということでした。

信長が壮大な夢を描いた安土城ですが、わずか数年で消えてしまうこととなり、儚いものに感じられました。
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​NHKブラタモリ「京都・二条城▼世界遺産&国宝二の丸御殿へ!徳川三代の思惑とは」

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今回の舞台は京都・二条城▼世界遺産・二条城に隠された徳川三代の思惑を探る。大政奉還の舞台となった国宝・二の丸御殿へ。京都における将軍家の拠点、城の造りと立地に込めた初代・家康の緻密な戦略とは?美しい庭園に幻の御殿の痕跡を発見!2代・秀忠&3代・家光による大改築、その裏に隠された壮大な計画が明らかに。天皇を魅了した!?天守から眺める京都の絶景&江戸時代の始まりと終わりを見届けた城の運命にタモリ感嘆

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京都・二条城を訪れ、旅のお題「二条城に隠された 徳川三代の思惑とは?」を解き明かした回です。

二条城は、江戸幕府が開いた1603年に家康が築いたお城で、将軍が京都へ来たときの宿泊場所としてつくられたということです。

家康の意図として、京都御所があるため、御所からはある程度距離を離した場所に築き、武士の権威を示しながらも、あまり強固でないつくりにすることで、天皇に配慮を示したと考えられるそうです。

その後、二代・秀忠、三代・家光は、大規模な増改築をして城を発展させたということです。

増改築した理由は、天皇を迎えておもてなしするためだったということです。秀忠の娘は天皇家に嫁いでいて、天皇をおもてなしすることで、さらに天皇家との関係を深める思惑があったそうです。

残念ながら、秀忠の娘が産んだ子は幼くして亡くなり、天皇の後継者にはなれなかったそうですが、もしそうでなかったら、江戸幕府は続いていたかもしれないという専門家のお話でした。

二条城は、江戸幕府の始まりに築かれ、大政奉還がおこなわれ江戸幕府の終わりにもなった、歴史の重要な舞台だったことがよく分かりました。
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NHKブラタモリ『蔵王温泉▼大人気!雪国リゾート誕生の秘密&神秘の絶景「樹氷」』

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今回の舞台は山形・蔵王温泉▼温泉・スキー場・樹氷の3つの魅力から大人気・雪国リゾート誕生の秘密に迫る旅。タモリ絶賛の名湯!日本屈指の強酸性温泉はなぜ湧き出た?湯けむりの温泉街を歩いた先で謎の傾斜を発見!火山の山体崩壊が温泉街とスキー場を生んだっていったいどういうこと?さらにはロープウエーで山上の高原へ。冬の蔵王を象徴する神秘の絶景・樹氷を体感!最後は蔵王をこよなく愛した白洲次郎ゆかりの山荘に感動

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前回に続き、山形・蔵王を訪れ、お題「雪国リゾート 蔵王温泉はどうできた?」を解き明かした回です。

「温泉・スキー場・樹氷」の3つの魅力から人気という蔵王温泉。
それぞれの魅力がどのようにしてできたか、地質地形の観点から解き明かしました。

温泉・スキー場の成り立ちに関係するのが、8万年前に起こった大規模な山体崩壊だということです。もともとは大きな火山があったそうですが、山体崩壊が起こって山が崩れ、できた窪地に強酸性の温泉が湧き、崩れてできた斜面がスキー場になったということです。

樹氷については、朝日連峰と蔵王連峰の2つの山があることと、「過冷却水滴」という、0℃でも凍らない水滴ができる現象が関係しているということです。

冬になると大陸から吹く、水分をたくさん含んだ季節風が朝日連峰にぶつかって大きな雪雲をつくり、雪雲の上のほうは過冷却水滴となるそうです。その過冷却水滴が、蔵王連峰のアオモリトドマツにぶつかった衝撃で凍り、樹氷の絶景ができるということです。

さまざまな奇跡的な条件が重なって、「温泉・スキー場・樹氷」がセットになった雪国リゾートが生まれたことがよく分かりました。
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NHKブラタモリ「蔵王▼山頂へ!火山が生んだ奇跡の絶景&江戸時代の大ブームとは」

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今回の舞台は宮城県と山形県にまたがる蔵王連峰▼なぜ人は蔵王をめざす?江戸時代に大ブームとなった信仰登山“御山参り”の秘密に迫る旅へ。スタートは火山の噴火が生んだ火口湖“御釜”の絶景から。山頂の神社で痕跡を発見!人気旅のルーツは古くからの山岳信仰にあった?参拝ルートに広がる奇跡の絶景の数々にタモリ大興奮!約30万年前からの溶岩流が歩きやすい道を生んだ?最後は登山後のお楽しみ!麓に待つ極上の温泉街へ

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宮城県と山形県にまたがる蔵王連峰を訪れ、旅のお題「火山が生んだ大ブーム 人はなぜ蔵王を目指す?」を解き明かした回です。

蔵王という山があるわけではなく、この一帯の山々を総称した名称だということです。

江戸時代、庶民らが蔵王を目指す「「御山(おやま)参り」の信仰登山が大流行したそうです。

なぜ山頂を目指して登ったのか?
江戸時代以前から蔵王の山々では修験道信仰が盛んだったということです。山頂の神社では修験道の中心的なご本尊「蔵王大権現」を祀ってあり、それが山頂を目指した理由で、このあたりを「蔵王」と呼ぶのも、蔵王大権現をお祀りしたのが始まりだそうです。

それが大ブームとなった大きな要因は、山頂の火口に溜まった湖「御釜(おかま)」にあるそうです。この江戸時代ごろに火口に水が溜まったと考えられ、山頂の絶景を見ようと、多くの人が訪れたそうです。

そのほかにも、「賽の河原」と呼ばれる荒涼とした景色が広がっていたり、大量の溶岩流が流れ出してできた歩きやすい地形のため日帰りで山頂まで行って帰って来られたり、そして旅の最後にふもとの町で温泉に入れたりと、いくつもの旅の魅力があるということで、大きなブームになったことがよく分かりました。
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NHKブラタモリ「山岳リゾート上高地▼なぜ人気観光地に?神秘の池&謎の風穴」

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旅の舞台は長野・上高地。冬にはマイナス25度を超える過酷な環境で人が住むには困難な上高地が、なぜ日本屈指の山岳リゾートになったのか?旅のスタートは神秘的な池へ。江戸時代の人々の営みを穂髙神社奥宮で探る!その名が世界に広まるきっかけは、穂高連峰を知り尽くした杣(そま)人の存在にあった?さらに世界遺産・富岡製糸場に影響を与えた風穴を発見!上高地の玄関口・釜トンネルへと繋がる奇跡の道のりにタモリ大興奮!

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上高地がどのようにして人気観光地になったか、解き明かした回です。

上高地は人が住むには厳しい環境ですが、400年以上前の江戸中期から人が住むようになったことを始まりに、明治に蚕の卵の貯蔵業が盛んになり、その後、発電所建設のためのトンネルがつくられたり、昭和に帝国ホテルが建てられるなどして、段々と上高地へとつながる道路が整備されて発展していったということです。

またその間、景勝地を決めるコンテストで日本八景に選ばれるなど、上高地の名を一躍有名にする幾つかのきっかけもあって、人気観光地になっていったということで、様々な出来事が重なって山岳リゾートとして発展していったことがよく分かりました。
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​NHKブラタモリ「長野・上高地▼山岳リゾート・上高地の絶景はどう生まれた?」

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旅の舞台は長野・上高地。年間145万人が訪れる日本屈指の山岳リゾート。人々が憧れ、魅了されてきた絶景はどう生まれた?3000m級の山々に囲まれた秘境に広がる盆地を作り出した壮大な自然の力!北アルプス誕生のカギを握るのは、世界的にも珍しい花こう岩だった!上高地を流れる美しい梓川が生まれた秘密とは?人間によって造られた構造物が絶景を守ることにも繋がった?タモリも驚き、感動した絶景誕生の秘密に迫ります!

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長野県松本市の上高地を訪れ、旅のお題「山岳リゾート・上高地の絶景はどう生まれた?」を解き明かした回です。

上高地の絶景は、3つの要素からなるということです。
その要素は、①平らで広大な盆地、②3000m級の高い山、③美しく透き通った川。

これらがそれぞれ、どのように生まれたか解き明かしました。

この中で、①平らで広大な盆地は、高い山と山の間、標高1500mに距離12kmもの平らな地形が広がっていて、珍しい地形だということです。

じつは、最初は平らではなく、V字の谷だったということです。
平らな盆地の誕生のカギは、焼岳火山群で、太古の火山活動でV字の谷の水がせき止められて湖ができ、土砂が堆積して、平らで広大な盆地になったということでした。

他の2つの要素も珍しい条件でできたもので、さまざまな偶然が重なって、上高地の絶景が生まれたことがよく分かりました。
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NHKブラタモリ「東京・神楽坂▼大人の隠れがの街はどうできた?花街誕生のヒミツ」

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今回の舞台は東京・神楽坂▼路地裏にオシャレなレストランやバーなどの飲食店が立ち並ぶ都内屈指の人気エリア!まさに“大人の隠れが”といった雰囲気の街がどう生まれたか?

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東京・神楽坂を訪れ、旅のお題「なぜ神楽坂は大人の隠れ家になったのか?」を解き明かした回です。

神楽坂のメインストリートである坂道のルーツは、江戸時代にあり、道の先には、徳川3代につかえた大名・酒井忠光の下屋敷があり、将軍がこの下屋敷に向かうためにために整備された道だったそうです。

下屋敷とはプライベート的な屋敷で、特に3代家光は酒井を頼ってよく通ったそうで、言わば、将軍が隠れ家へ通うための道だったということです。

それから、だんだん大人の隠れ家の街へと変わっていったということです。

その理由は、この場所が崖の地形になっていて、崖下は人目を避けるのに適しているため、江戸後期には遊郭ができ、明治時代になると花街になっていったそうです。

そうした隠れるのに適した地形があったことに加え、迷路のような路地が張り巡らされて、人目を避けた街づくりがされていったそうで、大人の隠れ家と呼ばれる魅惑的な街になった理由がよく分かりました。
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NHKブラタモリ「京都 国宝・三十三間堂SP▼超拡大版!なぜ800年守られた?」

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旅の舞台は京都・三十三間堂。千体の観音像がズラリと並ぶ圧巻の寺は、仏像と本堂すべてが国宝!平安時代に創建され、約800年もの間、火災や地震、戦乱など数々の危機からどう守られたのか?観音像の耐震構造や、究極の地盤改良など、驚きの知恵と工夫に迫る。さらに秀吉の“京の大仏”が三十三間堂を守ることにつながったという意外な歴史も!?そしてタモリも言葉を失うほど美しい、夜空に輝く幻想的な観音像の姿を特別公開!

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京都を訪れ、旅のお題「国宝・三十三間堂はなぜ800年守られた?」を解き明かした回です。

正式名称は「蓮華王院」で、柱と柱の間が33あることから「三十三間堂」と呼ばれるそうです。

後白河法皇によって平安時代末期に創建されますが、火事で焼失し、鎌倉時代に再建されて、以来800年、地震や火災、戦乱など様々な危機に見舞われますが、それらを乗り越えて存続してきたということです。仏像と建物すべてが国宝だそうです。

危機を乗り越えることができた理由の一つが、耐震のしくみだということです。

お堂には千体もの観音立像が並びますが、仏像の中は空洞で軽く、重心が低いところにあるつくりのため、阪神大震災でも倒れなかったそうです。
また、敷地自体も、地盤沈下しないように、砂と粘土を重ね合わせて地盤改良が800年前にされていたということで、当時の知恵に感心しました。

三十三間堂が豊臣秀吉・徳川家康と意外な関係があったことも、守られた理由の一つだということです。
三十三間堂の近くには、かつて豊臣秀吉がつくった「京の大仏」があったそうですが、秀吉亡き後、五大老・家康が、三十三間堂と大仏殿を塀で囲って一つの寺にし、一体化されたことで資金に恵まれたということです。

800年の間に様々な危機があり、その時代その時代でお堂や仏像を守ろうとする人々によって危機を乗り越え、受け継がれてきたことがよく分かりました。
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​NHKブラタモリ「東京大学の宝▼安田講堂&国宝!東大にしかない“宝”とは?」

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今回の舞台は東京大学▼東大にしかない“宝”を探ります。スタートは正門の先にある安田講堂から。今年で100周年を迎える安田講堂が崖下に建つ理由とは?

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東大にしかない“宝”を探った回です。

最初に、東大のシンボル「安田講堂」を巡りました。
実は、安田講堂は崖の下に建っていて、崖の上にあるのは正面の入り口だけでした。

なぜこのような立地になっているのか?
それは100年前、当時の土木総長が、「正門を入ったら、万人が襟を正すような厳粛な雰囲気にしたい」という思いから、新たに正門をつくり、広くてまっすぐなメインストリートを通して、その正面に安田講堂が位置するようにするため、崖だった場所に建てたということです。

そんな安田講堂は内部も立派なつくりで、卒業式のために作られたというホールは優雅な雰囲気で、“宝”と言えるような建物でした。

このほかにも、東大敷地内にある「史料編纂所」では、日本書紀などの続きとして、現代までの日本の歴史書を目指して作られている「大日本史料」。「東京大学総合研究博物館」では、ナウマン像の牙、イランの石器、世界のオアシスの水など、ありとあらゆる分野の標本を保管していることの紹介があり、東大の研究者たちが生み出す、まさに“宝”と言えるものでした。
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