間違いは「否定」の対象としてのみ存在しているのだろうか。
ネガティブなオブジェクトにはいつだって、反対因子がぶら下がり、
価値のないモノとして否定され、ほったらかされてしまう。
そうして、正しい物だけしか見ない事が正しいと、そう思い過ごしている人も多いのではないだろうか。
本当にそうなのだろうか?
それが間違いであったこと、間違いであると理論づけたことに意味はないのだろうか。
間違いが間違いと認識され否定された事を踏まえて、そのオブジェクトを見ていく意味はないのだろうか。
間違いにより反れしまった観点の果てに答えがある事もあるのだろう。
しかし、よくよく考えて見ると、その答えの側に「その間違い」があったなんてこともきっとあるはずなんだ。
間違いから学ぶことに意味があるとかそういう話ではなく、そのオブジェクトに対する判断基準として、間違いも時には説明に必要であると言いたいのである。
それこそが「正しい」と「間違い」の狭間に揺れる均衡の正体なのではないだろうか。
それこそが「深い理解」へのきっかけなのではないだろうか。
そう、間違いは「在るべき特徴」なのである。
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【頭の体操クイズ】File.012:あるべき特徴の捉え方
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